1つの軸で評価されるハイパーメリトクラシーな日本への警鐘―『教育は何を評価してきたのか』

能力とは何か――時代によって変わる能力

「能力を上げたい」――誰しもが思うことではないだろうか。

能力を上げるために学校に通い、研修を受け、書を読む。だが、そもそも「能力」とは何だろう?何のために能力を上げるのか?そもそも能力とは上がるものなのだろうか?

本書はそのような疑問を真っ向から取り上げている。

能力とはもちろん一義ではない。時代によって、場面によって、人によって定義は変わる。教育社会学者である筆者は、この「能力」という言葉が「資質」「態度」という言葉と共に、社会や政策、教育法を中心とする法制度においてどのように使われてきたかを追いながら、非認知的な能力を含みつつ、それすらも定義を「水平的画一化」され、「垂直的序列化」されようとしている今の社会に警鐘を鳴らしている。

大量消費社会を背景として、物事を秩序だって効率的に進められる人材や組織が求められ、その育成のための教育制度が形作られてきた。厳格な六・三・三制、暗記型試験、新卒一括採用――社会の変化を受け、これらが批判されるようになって久しい。環境破壊の進む人口減少社会、少子高齢化社会においては、課題解決スキルやイノベーションが求められるようになり、教育も変革を求められ、試行錯誤している。社会人教育の必要性も叫ばれるようになった。

学校においても、課題対応能力や論理的思考力、人間関係形成能力といったことが育成の対象となっている。わがグロービス経営大学院でも、所謂経営学に属する科目の他に、“志”を追求する授業や、思考法を扱うクラスもある。巷では、“人間力”という言葉も使われる。意味するところ、包容力であったり、協調性であったり、リーダーシップであったりするだろう。

それ自体はよいと私は思う。算数、国語、理科、社会に外国語といった学習科目の成績以外に、思考力やリーダーシップなどが評価されるのはよい。その結果、評価されるものの幅が広がり、コミュニティや組織に多様性が生まれ、創造的かつ協創的な社会が出来上がるのであれば。本書が問うているのは、それらをどう評価するのか?ということなのである。

何を評価するのか?ハイパーメリトクラシーで排除される多様性

生まれや身分によって社会的な地位が決まるのではなく、能力によってその地位が決まる社会の原理をメリトクラシーと言う。日本語ではしばしば「能力主義」と訳される。もともとこれは好ましい原理として社会に迎え入れられた。しかし、この能力という言葉に、学力以外に様々な要素――思考力や想像力、人間力など――が含まれるようになった結果、それらも評価の対象となり、どのような思考方法や内容が良くて何は悪いということが評価のために定義され、「水平的に画一化」されていると筆者は言う。

そして結局はひとつの軸で人は「垂直的に序列化」され、賞賛され活かされる能力や要素は広がらず、多様性にもつながっていないと言うのである。このような日本の状況を筆者はハイパーメリトクラシーと呼び、世界でも特異な傾向であると説く。

そもそも、評価というのは教育学上の一大トピックである。私は現時点で能力をどう定義し、どう評価すべきという結論は持たない。これからまだまだ追究していくつもりだ。しかし、これまで高く評価されていたスキルはテクノロジーがカバーし、人類はさらに未知の領域に創造的に立ち向かっていかなければならなくなった今、多様な人材が安心して貢献できる世の中であるための評価であるべきだと思う。

あなたは、何をどう評価されていますか?それは、そのように評価されるべきものですか?何を評価されたくて学んでいますか?一度、学びの途中に立ち止まって、考えてみてもよいかもしれない。

教育は何を評価してきたのか
著者:本田 由紀 発行日:2020/03/19 価格:924円 発行元:岩波書店

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